31歳

31歳
シャンシャンは5歳になった、奇跡的に?まだ東京にいる。最後にひとめ見に行きたいな...すっかり大きくなったなあ
30代になったのが割とスッと受け入れられたのか、30歳の1年間でそんなサバを読むことはなかった
そもそも人と交流することがメチャ減ったのもあるだろうけど
というかまあそもそもこの歳になってくるとなのかなんなのか、他人だの自分だのの年齢がどうでもよくなってくる感
歳とは関係ないけど、蔓延防止の気分が抜けないままウクライナで戦争がはじまって鬱屈した気分が続いている
未知の(もはやだいぶ well known なのかもしれんが)病原体が現れても結局人間は人間同士で争い続けるんだなあと改めて暗い気持ちになった
そうこうしてるうちに足下では円安が急激に進行して、輸入品が信じられんような値段になるようになった
単純に金利差が反映されているだけとはとてもおもえないんだけど、実際どうなんだろうか...
気が滅入るのでフィクションに逃避している感覚がある
一時はフィクションが全然入ってこなくてノンフィクションを嗜好していたが、今はノンフィクションがキツくてフィクションに戻ってきた
去年は感情を知ろうなどと書いていたが、いざ感情に焦点を合わせると濁流のようにいろいろな感情が流れていることに気付いてしまった
20191224によると、この時ぐらいに自分が怒っていることに気付きだしたみたいだけど、ようやくと言うべきなのか、怒りがこみあげてきた時にどう対処すればよいか、というフェーズに入った感じがする
人生がはじめてなもんでな...
怒りだけではなく、嫉妬だったり色欲だったり怠惰だったり理性でもってストッパーをかけないと社会的に終わるみたいな感情が渦巻いている
そして現在において理性でホールドできていると言っていいのかも定かではないし、この先も抑制的に生きていけるのか、老いたことがないのでわからなくて怖い
他方で、社会的に~ってのは誰に媚び諂って生きているんだ?俺は俺の感情で怒るんだってのと、人間は独りでは生きていけないわけで集団の構成員としていかに生きるべきか追究していくべきなんだという相反する考えがこの狭い頭蓋骨の中で同居している
ところで、今月の100分de名著安部公房砂の女で、砂の器と勘違いしがちという伊集院さんよろしく、自分も安部公房を鎌倉時代ぐらいの人(たぶんそれは安倍晴明?)だと勘違いしがち~ぐらいの距離感だったのがヤマザキマリさんの語りの面白さもあってグッと引き込まれている
砂というモチーフがこんなにも面白いのかという
理想的な社会構造として、個(砂粒)はそれぞれ孤立していて、流動し混淆しながら社会(砂丘的な?)を形成している~みたいな。それって Stand Alone Complex じゃん!と
相反する矛盾する考えでもって世界を包摂すると説いたのは渋沢栄一だったか
なんのかんの言っても中庸が一番ということだろうか