長いものを長いまま観ないとわからない感情ってあるんですよね。小説だって1冊を読むから小説なわけで。それを2倍速で観たり、要約を知るためにまとめサイトであらすじだけを追うことは別に悪いことではないし、僕もしますけど、それとこれとは違う行為だということはわかっていないといけない
長いものを長いまま観ないとわからない感情ってあるんですよね。小説だって1冊を読むから小説なわけで。それを2倍速で観たり、要約を知るためにまとめサイトであらすじだけを追うことは別に悪いことではないし、僕もしますけど、それとこれとは違う行為だということはわかっていないといけない
「短い時間ですべてを理解したい」というのは陰謀論なんかに近付いていってしまう気もするので。時間の長さって、ほかに替えることができないじゃないですか。
okadadaさんが教えてくれた宇多丸さんの話があるんです。宇多丸さんが昔、「ラップは“韻を踏まなきゃいけない”というルールがあることによって、普段、自分が発さない単語が出てくる」と言っていたらしいんですよね。例えば普段、「ヘリコプター」と韻を踏まなきゃいけないなんて考えてしゃべらないですよね。でも、そういうことを考えるのがラップで。そうやってルールに乗せて遊ぶことで、明らかに自分の言葉だけど、普段の自分とは違う言葉が出てくる。その話をokadadaさんがしてくれたときに、「俺がやりたいのは、まさにそれだ」と完全に言語化された感覚があったんです。僕の場合は「人に聴かせる音楽」というルールがあって、思っていることを音楽にしていくことによって、言葉じゃない情報として自分の思いが立ち上がってくる。
神戸にいるときは「神戸のメンバー」みたいな感覚だったんですよ。「自分はこの街の頭数なんだ」という強烈な自意識があったし、その帰属意識を胸に燃やしてやってきた部分があったんですけど、東京はそういうものがあまりないように感じる。いい意味で紛れられるし、「ここに自分は帰属している」という意識を持っている人があまり多くなんじゃないかなと。もちろん、東京ローカルでそういうことをカッコよくやっている人は多いと思うんですけど、我々みたいな地方から出てきた人間からすると、東京は紛れることができる場所というか。もし誰かがいなくても、「あの人いないな」とかにはならないじゃないですか。それは、東京のよさでもあるなと思いますね。
「ポップにできるかどうか」って、みんなが好きだと思うものを出せるかどうかとは違う話だと思うんですよ。結果的にポップスとして受領されるものと、「お前ら、こんなの好きやろ?」と下手に出て作品を出すことの間には、似ているようで大きな溝があると思う