ダゲレオタイプと核

写真家の新井卓氏の講演を聴いてきた

たまたま 8/15、終戦の日で、ややスピリチュアルな気分になった

氏の思索の旅には/原爆というテーマが大きく横たわっている

2回の原爆投下第五福竜丸東日本大震災の原子力事故、我が国は核の問題と切っても切り離せないなと改めて感じた

講演で刺さった言葉が2つ

「歴史は情報であるが、しかしそれは誰かの体験でもあるのだ」

体験したことがないことをどう体験するか。それが写真家としての探究の道なのだと

「モノと情報がリンクした時に歴史になる」

吹き飛んだ原子炉の「そのもの」だけなら物質的なモノでしかない

そこに「ここで原子力事故があった」という情報がリンクした時に、人間は目の前のモノを歴史として受け止めることができる

ダゲレオタイプの実物を見た

紙の写真とはまた別の写真史があり、氏はそれを練習しながら撮影を続けているそうだ

圧倒的な解像度と重厚さに衝撃を受けた。この超解像度の板というモノの存在感こそが「体験」なんじゃないかとおもった

撮影にかなり手間のかかる手法で、1日に数枚しか撮れないし、シャッターを切ったらOK! ではなくしばらく露光させないといけない

不便益というと語弊があるかもしれないが、「ここぞ!」というモノを撮ろうと思考が制約される作用があるとおもう

作り手の深い情念と、被写体との協力に依ってでしか成り立たない芸術というのも良い

音楽で LP磁気テープにしかないアナログのぬくもりみたいなものと、たぶん同じ話なのかなとおもった

思考は技術にかなり依存する、ともともとおもっている

現代では画像はもはや「生成できるもの」になってしまったので、重みがだんだん薄れていると感じる

写真は裁判でも使われるぐらい信憑性の高いものだったのに、今はぱっと出されただけでは真に実存するものか判別がつかない

「モノと情報がリンクした時に歴史になる」を裏返すと、リンク先の実体が無い、生成された画像は、解像度がいくら高くても歴史にはならない

現代社会はインスタントにコンテンツを作り出してはインスタントに消化する方向にどんどん進んでいて、思考も「何が正しい」「何が悪い」と刹那的になっているように感じる

AI/LLM

核は、人類にとっていよいよ「制御できなくなってしまったテクノロジー」の象徴のように感じた

それでもまだ国家という大きなプレーヤーがコントロールするものではあった

同じぐらいのインパクトをもつ AI/LLM が、制御不能なまま解き放たれた感じがする

恐怖の中身は、制御できない超知能が放たれてしまった時に、人間のスケールを超えた意志決定プロセスを踏むんじゃないか、という直接的なものだとおもう

核の問題はそう簡単に善し悪しを判断できるような話ではなく、インスタントになんらかの結論が出るわけでもなく、かといって意識の外に置いておけばいいというものでもない

だからこそ、ゆっくりと、しかし確実に被写体を捉えるダゲレオタイプと相性が良いのかなとおもった

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