行動、属性、信頼
ある個人や組織の「行動」を評価するときに、対象の「属性」や過去の行動の結果の蓄積からくる「信頼」は加味する要素になっていそう。そして「行動そのもの」と「属性」「信頼」にそれぞれどれだけ重きを置くかってのは評価者によって異なり、思想の違いが表れていそう。
このあたりを見ていて考えたのだった。
これは党派性のもたらすもので、現政権や官僚がやることは全部否定、あるいは肯定、という論理のもとではそうなるのです。が、世界中見渡してみても100%成功しているところも、100%ヘマばかりの国もありません。未曾有の危機の中でどこの国も苦労しながらやりくりしているのです。
岩田健太郎さんのツイートはスレッドの中のひとつなので、前後の文脈とともに解釈することが大事だけど、長くなりすぎるのでひとつだけ引用。
自分は「行動 : 属性 : 信頼」の比率は「6 : 1 : 3」くらいで見ている気がする。属性も信頼も、行動から完全に切り離せるわけじゃないから話はそう単純じゃないけれど、ぼくの価値観を整理して自覚するためには役に立つ数値化だろう。たとえばぼくはイベント等で自己紹介するときに「名前を所属よりも先に言う」ようにしていて、これは「属性」としての所属を前面に出したくないからである。
岩田健太郎さんは、相手が誰であろうが所属がなんであろうが「行動」そのものを評価しようとしていて、ぼくの目には誠実な態度に映る。一方で「属性」に重きを置く人から見れば、ある属性のことを高く評価したり低く評価したりして一貫性がないように見えるのだろう。比重の違い、価値観の違い、だと思った。
続いて「信頼」という要素について。
なぜならば、区長、教育委員会、校長会、区議会(政治的思惑が乱れ飛ぶのが人間世界だから、もちろんこれら全てのメンバーを同じには見ていないが)が、どのような議論と格闘と苦悩の後にこうした決定に至ったかを「ある程度の信頼と事実」を踏まえ、知っているからである。
岡田憲治さんは「世田谷区」という自治体には一定の信頼を置いているから、その行動を納得しやすい、と。対比して、政府への信頼はそれよりもずっと少ないから、パッと出てきた行動に納得できないことが度々ある、と。平時に貯めておいた信頼が有事の際に効いてくる、それはそうという感じ。
この記事を読んでぼくも「たしかに、信頼があるかどうかってのはけっこう大きいな」と思ったのだった。なんとなく自分は「行動そのもの」で評価しているような自認があったけれど、よくよく考えてみると「信頼できているか」は大きそうだ、と認識をあらためるに至った。
特定の「属性」を攻撃するためならなんでも利用する、みたいなスタンスを見かけることがある。そういう人にとっては「属性」が最上位なのだろう。その「属性」を叩く材料になりそうな「行動」を見つけてきては叩く。
セレクティブ・エネミーもそういう話だよな。
「信頼」が「属性」に強く紐付いちゃうケースもある。こうして考えてみて、やっぱり切り離すのはむずかしいとは感じる。
どのコンビニを推すかのページにもちょろっと書いてある通り、ぼくは「この企業グループはあまり信頼できない」と思ってしまったりしている。それでも、よい取り組みは「よい」と評価したいしそうするつもりなので、基本スタンスは「6 : 1 : 3」くらいなのだろうと再確認する。