入力と意識

入力と意識
意識を解き明かしたい者たちにはっつけた PDF は超斜め読みだし、内容もサッパリわかってないんだが、なんとなく意識には入力がある程度必要という感じがする
という主張をこじつけたいだけという気もする
パンチライン論でリプライもらった時はぶっちゃけ全然わからんかった
わからんということは、つまるところ認識や意識の完全に埒外の事象だなと識別した?ということ?
しかし、こういう入力があることで認知できる範囲が広がる感じがあるというか.....
もしかしたら己だけでも時間をかければその境地に行き着けるのかもしれないが.....行き着けるのか....?
そういう意味では、たくさんの入力をブチ込むために、タイパイズムで映画を倍速でみたりだとか、すりゃあいいのかもしれないが、なんとなくスナック感覚で消費してしまっている感じがしてしまうというか....
ポテチ食いてえなーって時に、マスプロダクションされた袋のポテチ食っても翌日にはそのディティールは忘れてそうだけど、手塩にかけて土を耕して、芋を植えて、収穫して、スライスして、揚げて作ったポテチ(実際最近食ってちょーうまかった、ただマスプロダクションを卑下したいわけではなく、比喩としてというか.....安定的に人々に求められるものを品質を保ってローコストで作り続けるのは大変な労力がかかることだとおもっている)はそこまでのカスタマージャーニー的な体験を全てひっくるめて入力としてブチ込まれるので、意識に与える影響度は大きいのではないかとおもう
現代社会において、ポテチ食いてーって時に求められるのは前者で、パッケージングされてインスタントにウマい!みたいな
映画にしたって、昔はロードショーがあってから地方に云々とか、そもそも洋画が数年レベルで遅れて公開されてたりしたのが配信で世界同時に公開されたりするようになったりして、確実にリーチは広くなってるんだろうけど、北野武をどうしても早くみてえ!つってカンヌまで足を運んで鑑賞するのと、劇場の上映も終わって配信まできてから家でザッピングしながらみるのとでは、入力のゲインが全然違うだろうというのが想像がつく
だし、ちょっと待てばラクにみられる環境にありながら、何故公開日初回みたいな劇場に行くかといえば、やっぱりそこでしか味わえない体験があるからで、パンデミックを経てよりその素晴らしさを痛感した