マトリックス レザレクションズその後

パンフレット読んだり、アトロク聴いたりした
ラナが意図してたこととか、今これをつくる意義とか、そういう御託はもちろんわかるんだけど
俺は監督の作家性だったり、メッセージだったりと作品の面白さは両立するものだと Fury Road で学んだので、押井守さんが書いているような作家と観客との関係性については、レザラクションではもちろん、リローデッドやレボリューションズでも再三語られてきた二元論をやめよう!てとこと相反しているような気がする
リドリー・スコットプロメテウスはマジでなんだこれ(ドーナッツから逃げるやつ)って感じだったけど、最後の決闘裁判ではぶっ飛ばされたし(年明けのハウス・オブ・グッチもちょー楽しみ)、イーストウッド御大の15時17分、パリ行きとかマジでなんなんだこれって感じだったけど、運び屋はイーストウッドにしかできねえ役だとおもったし、予告でかかってたクライ・マッチョグラントリノを思い出しちゃって予告でもう泣いちゃった
自分が何より一番悲しいのは、作品が作り手たちの意図と違う方向で受容されていった時に、そこ辺と全く無関係である私にも、そいつらに対するヘイトが飛んでくること
実際俺だって Red Pill とか散々ミームとして消費してきた側だからあんまりデカい声では言えないけど、それでもQアノンの連中たちのミームになってるのはマジでムカつくのはわかる
だからと言って、創造主たる作り手が「こういう受容の仕方をしてくださいね」って規定してくるのは、作品の広がりを狭めることになるんじゃないかと感じる
オープンワールドのゲームなんかでも、かなり受け取り方が窮屈なゲームがあって、もったいないなとおもうことが少なくない
映画に限らず、創作物というのは世に放たれると、創造主のことなど構いなしに広がっていくものだとおもうし、それこそが良さであり、逆に作用することもある
だからこそディストピアなんかでは梵書をしたりするんだろう
良い時は、なんでもない映画のポーズが現実世界の抵抗運動のシンボルとなったりもするし、悪い時は電車で火を放ったりする