ビートマニアと「限界的練習」 - rice Placeの日記

教師、コーチ、教則本、あるいはウェブサイトから方法を学び、許容できるレベルに到達するまで練習する。そうすると自然と体が動くようになる。この方法が別に悪いわけではない。人生における大方のことについては、そこそこのレベルに到達し、それで良しとしてもまったく問題はない。A地点からB地点まで安全に運転できればいいとか、ピアノで『エリーゼのために』を弾けるようになれたらいいというのであれば、この練習法で十分だ。

そこそこのレベルというのがどの程度かは、身近な上級者の存在・それまでの音ゲー経験の有無などにも大きく左右されると思いますが、多くのプレイヤーはSP七段~八段あたりまでに一度は壁にぶつかるのでは無いかと思われます。
 壁となる要素は人それぞれですが、大体このくらいの段位から見えたものをそのまま自然に押そうとするだけでは対応が困難な譜面パターンが増えてくるような気がします。その最たる例が七段ボスTHE SAFARI(HYPER)でしょう。
そうです

「自然に何かができるというレベルでは満足できない場合」の壁の破り方として、2段階目の練習法、『目的のある練習』を明文化しています

目的のある練習には、はっきりと定義された具体的目標がある

「七段に合格する」→「サファリを正規or鏡で段位ゲージで突破する」
とより具体的に言い換え、その目標を達成するために
  ①「サファリ開始までに○%ゲージを残す」
  ②「サファリの難所でゲージを保つ」
  ③「サファリの簡単な部分のミスを減らす」
と目標を細分化し、それぞれを具体的に達成するために例えば
  ②ー①「プレイ動画を見てゲージが減っている原因を考える」
  ②ー②「難所を押しやすいオプション・運指を考える」
  ②ー③「難所のリズムを把握する」
  ②ー④「押せていない・見えていないなら同系統の別の譜面も触る」
  ②ー⑤「必要以上に押しすぎているなら思い切ってノーツを間引いてみる」
  ②ー⑥「難所で緊張するならランダムで何度もプレイして曲に慣れる」
……などなど、より定義を明確にして目標を具体的にし、行った練習が目標に対して上手く行ったかどうかを検証できるようにすることが重要です。

目的のある練習は集中して行う

その瞬間の気分で好きな曲をプレイするのは全く悪いことではありませんが、「上達のために練習している」と思って投入したクレジットだけでも、「何となくquasar」「何となくAA」で何となく練習した気になるのは控えたいものです。
 真剣にやるなら、ゲーセンに着く前に原則一で提示したようなその日の具体的な課題を決めておき、具体的な練習譜面一覧をスマホに用意しておくのが良いでしょう。そうすれば、プレイ中に次やるべき譜面を考えるような事態も防げます。

目的のある練習にはフィードバックが不可欠

 ビートマニアのリザルトは、2分間のプレイ結果をまとめて表示しているだけに過ぎず、押せなかったノーツの押せなかった理由を報告してくれるわけではありません。最近はプレイ中の細かい情報や鍵盤ごとの精度なども(新筐体なら)参照できるようになりましたし、自分でカメラを用意せずとも課金してプレイ動画を保存できるようになりました。
 フィードバックの解像度は、原則一とも極めて深く関係します。目標を細分化するためには、自分の現状を正確に把握する必要があります。
 私の例を出すと、最後の未難だったΧ-DENを攻略するためにプレイ動画を撮影したら、決まって卑弥呼地帯の縦連を押し過ぎていることがわかりました。鍵盤の押し過ぎ・皿の回し過ぎに自分の感覚だけで気付くのは難しく、「地力は足りているはずなのに何故か上手く行かない」と悩む要因になりがちです。現に自分も他人にそのようなアドバイスをしたことがあったのに、自分ではプレイ動画を見返すまで気付かなかったのです。

目的のある練習には、居心地の良い領域(コンフォート・ゾーン)から飛び出すことが必要

自分にとって勝手のわかった、居心地の良い領域を超えようと努力した形跡が見られない。生徒の言葉からは、すでに楽にできるところを超えて努力することのない、かなり漫然とした練習姿勢が透けて見える。こんなやり方では絶対にうまくいかない。

あえてコンフォート・ゾーンから出ようとしなかった、そして上達するのに必要な、長時間にわたる目的のある練習をしなかったためだ。同じ曲ばかり三〇年間弾き続けているアマチュアピアニストのようなものだ。それでは向上ではなく、停滞するのが当然だ。

ビートマニアでも、簡単すぎる譜面だけではなく、難しすぎる譜面も練習にならないことがあります。BPが山のように出てゲージが地を這う譜面をプレイして、「やっぱり難しい譜面は難しいな、でも何となく練習になったな」と満足してしまうことは無いでしょうか。
足16やってガシャーンは何回かやったな...

限界的練習には、学習者に対し、技能向上に役立つ練習活動を指示する教師が必要だ。当然ながらそうした教師が存在する前提として、まずは他人に伝授できるような練習方法によって一定の技能レベルに到達した個人が存在しなければならない。

モーツァルトを熱心に指導した父レオポルト・モーツァルトの事例や、3人の娘を世界的チェスプレーヤーに育て、うち1人は歴史上最強の女性チェスプレーヤーとなった、心理学者ラズロ・ポルガーの例を挙げています。どちらの例でも、子供は親の腕前を十代前半までには追い抜いてしまったそうです。
モーツァルトもそうなんだ
ちょっと前くらいに父の日特集みたいな感じでF1ドライバーの父たちがフィーチャーされてたけど、最初軌道に乗るまではメンターいるわなあ

この点において避けられないのが才能と努力の議論でしょう。この本の筆者エリクソン教授はほとんど全ての能力は努力で説明可能だという立場ですが、個人的にはそれはエンジニアの言う「技術的には可能」と同レベルの話だと感じました。
 もちろん人生を捧げて取り組む上では「技術的には可能」なことは何でもやるべき、ということになるとは思いますが、多くのプレーヤーにとってはビートマニアはあくまでゲームなので、実生活に決定的な影響が出ない範囲でやっていくのが現実的なところだと思います。毎日5時間欠かさずにプレイすることが必須だという計画を立てたとき、それを実行しながら社会生活が問題なく送れるのなら、それはもう恵まれた環境という意味で才能があると言って差し支えない

最近エンジョイでDDR復帰したけど、SPは目に身体が追いつかなくてフラストレーション溜まるのでDPで6-9ぐらいの譜面を踏んでいるがSPでちゃんと段位チャレンジはじめようかなあ...