ハウス・オブ・グッチ 感想

リドリー・スコットラッシュという感じで、最後の決闘裁判から間もなく公開された本作は、前作でも「それフランス語でやらないんだ...」と同様に「それイタリア語でやらないんだ...」と感じはしたものの、終わってみるとノンフィクションの映画化というよりは、文字通り事実に着想を受けたフィクションであったという点で通ずるものがあったし、ずっと外部のモノとして扱われる女性について女性の視点から取り上げているあたりもまた、今のリドリーのスタンスなんだろうとおもう
「映画ってこういうものじゃん?」と考えているのかもしれない
ぼちぼち上映も終わり際で、まばらな客入りを想像して行ったら意外とまだ人が入ってて、しかも全身ユニクロな自分でもわかるぐらい明らかにグッチが好きですよーという雰囲気の人が結構いて、一体どういう気持ちでみにきているんだ...とおもった
割と出てくる奴全員嫌いで、なるべくしてなったというと言い方が悪いかもしれないけど、放蕩三昧のアダム・ドライバーはそりゃ経営から追い出されるわって感じだし、アル・パチーノもフックアップしておきながらレディー・ガガが経営に口出ししようとしてくると「女がすることじゃない」「グッチ家じゃない」みたいな家父長感出してくるし、ジャレッド・レトのパオロはバカすぎるし...
ところで、エンドロールまでジャレット・レトが出ていたことに気付かなくて「え!?誰!?あの弁護士のヒゲか...?」などと考えていたらまさかのパオロでとても驚いた、パンフによると6時間かけて特殊メイクしていたらしい、そりゃ気付かんわ
ジェレミー・アイアンズは退廃的というか、ある意味で一番現実を見ていたが故に?過去、亡霊と共に暮らしていたのがなあ...
出会いとラブストーリーの1幕とグッチ家を支配していく2幕、そして悲劇的な結末にいたる3幕とそれぞれ1時間ずつぐらいだったのかな?全然長さを感じないテンポで最後までいけた
ファッションには疎いので時代感とかトム・フォード?とかよくわからなかったけど、クルマがいちいちテンション上がってしまった
最後の決闘裁判でもおもったんだけど、アダム・ドライバーっていつもアダム・ドライバーなのに、なぜかル・グリにみえるし、マウリツィオにみえてくるのが本当に不思議
本作でも1幕のボンクラ感あったのが、2幕でつけあがるバカになり、3幕で本作の冒頭をなぞってきた時は「ああ...実はこの人の本質というのははじめからずっと変わっていなかったのではないか、周り(と性欲)に流され流されでこうなってしまっただけで...」と謎に感情移入してしまった
一族ものとして面白かったので原作を読んでみたいとおもった
素直に受け取るならば、一族経営、同族経営みたいなものがいかに儚い信頼関係の基成り立っていたかを表しているんだとおもう
これは再三言っているように最後の〜との共通点でもあって、あっちは中世封建制の中の一族を描いていた
さらに、小さなブランド(であったのだよね?)がグローバリゼーションというか、巨大な資本主義の渦に取り込まれてしまったというか、そこの哀しみもあるのではないか
そのクライマックスとして、資本主義社会においては金さえ積めば殺しだって容易に(手を汚さずに)できるということだろう