ぼんやりした話 - diary.jgs.me

ぼんやりした話なんだけど、どっかのカメラマンが「写真を撮るのは快楽なんかじゃないですよ、呼吸みたいなもんです」みたいなことを言っていて、それについてなんとなく考えていた。
たとえば、僕は電車なんかでグループから漏れてくる会話を聞きながらそのグループ内でそれぞれの立ち位置みたいなのを推理する、みたいなことが結構好きで耳をそばだててたりする。趣味といえば趣味だし、人間観察といえば人間観察なんだけど、なんかそうやってカテゴライズしておくのって行為を矮小化するだけのような気がした。
たとえば、リブログすることが趣味だとか、それこそ快楽だからとかって意味付けをすることはできるけどやっぱりそれって矮小化しているだけのような気がする。だからどうしたってわけじゃないんだけど、「この欲求を満たすために、この行為をしています」と意味付けしていくことは確かにできるとは思うけれど、突き詰めていくと全ての行為は自分の生命的な欲求に基いて発生している、というところに落ち着いてしまうんだろうか。社会性だったりとか、そういうのもやっぱり生存のために発生しているものなんだろうか、みたいなことをダラダラ考えていた。
ぼんやりした話なんだけど、どっかのインターネッターが「00年代前半の個人サイト全盛期のインターネットはよかった」みたいなことを言っていて、それについてなんとなく考えていた。
当時の僕はまだ小学生で、学校でフラッシュサイトをみて盛り上がる、みたいな接し方だったからもしかしたらそのひととは感じかたがまた違うのかもしれない。その前提で、僕は別にそんなことはないとおもう。
ソーシャルメディア全盛でストリームの名が表すように情報の濁流の中を流れに身を任せつつ、ゴミの山からダイヤモンドを探すみたいなこのインターネットが好きだ。でも5年後とかに、その人みたいに「あの時のインターネットがよかった」みたいになってしまうんだろうか。
最近そういう「その時にしか楽しめないもの」みたいなものの処遇をどうすればいいかよく考える。たとえば、中学の頃に流行った(僕はそのときが直撃だった)モンハンで、学校帰りとかで集まって狩りを楽しんでたあの時の体験っておそらく今後もうすることはないだろうし、もし仮にモンハンがリバイバル的に僕や僕周辺のコミュニティで流行ったとしても、あの学校帰りに制服でPSP握ってたあの体験は恐らくできないとおもう。そう考えると、多くの体験を過去に置いてきた。
話をインターネットに戻そう。この5年でインターネットは大きく変わったとおもうし、次の5年でも大きく変わっていてほしい。5年前といえば、Twitterができたかできてないかぐらいか。iPhoneはもう出てたか?Tumblrも出てたか?「あの頃はよかった」みたいな感情は確かに起こるものだけれど、それは人間が忘れっぽい生き物なだけでつらいことなんかはすぐに忘れてしまうからそんなことをおもってしまうんだろう。
なにはともあれ、感性に完成はないし(うまいこといった)常に代謝させて鋭敏にしておきたい。みたいなことをダラダラ考えていた。

June 11th, 2013 12:56am