❁夢の花❁ - diary.jgs.me

数ヶ月に一度、小学校のマラソン大会の夢を見る。小学校の同級生だったか、中学校の同級生だったかそれすらも定かじゃない人間が颯爽と横を走り抜けていく。それに遅れまいと僕もスピードを増そうとする。けれど、前からとてつもない強風が吹いているような感覚でなかなかうまく走れない。そのうちだんだん重力が弱まり、僕は段々とつま先立ちで走るようになっていく。そこでオリエンタルなゴミゴミした商店街のような地区に突入する。その頃には地面から身体が完全に離れて、まるで空気中を泳ぐように前進しはじめる。商店街の様々な突起を利用して前へ前へと身体を送り出すのだけれど、なかなか進まない。そして、その商店街を出るとついには水泳自由形のようなフォームで空中を泳ぎ始める。そこでいつも目がさめる。
夢のなかで身体をたくさん動かしているせいか、目が覚めると身体がすごく怠く感じる。が、昨夜実装しなかったAPIを実装しなくてはいけない使命感のもと、身体を起こしてコードを書いてデプロイ。
朝昼兼ねたブランチをしながら「惡の華」をみた。あの独特のタッチにはもうノックアウト。それから、音楽のセンスがすごい好きだった。
登校してから、健康診断へ。視力は1.5を堅持しているし、体型もほぼ変動なし。5年の頃に8kgほど太ったのだけれど、それまでがやせ体型だったのでちょうど標準ぐらいになってちょうどいい。
学校の帰路で伊藤計劃さんの「虐殺器官」が大詰めに差し掛かったので帰宅してからも読み進めた。
「虐殺器官」読了。SFというジャンル文学を久しぶりに読んだせいもあるかもしれないが、ものすごい引きこまれた。そして、作者の方があまりにも早く亡くなられたことが惜しくてならない。このひとを早くになくしてしまったのはこの世界の大きな損失だ。
もっともっと、この人の綴る文章を読みたい、と強く思わせてくれる作品だった。(ここでハーモニーを注文する)
「虐殺器官」はなんとなく表紙で立ち読みして、冒頭読んだ瞬間にもう買ってた
以前、有希代読書のスタイルを話していたときに、もしかしたら自分が他の人間と文学の読み方が違うのではないかと気付いた。というのも、僕はどんな文学でも文章を媒介に意識の中に映像や音声を構築しながら読み進めていく。割と大抵のひとがこういう読み方をしているんじゃないか、と結構本気で思っていたので、そういう話をしたところ「そんなことないぞ」と指摘された。もしかしたら他のひととは違うのかもしれない。かといってどうこうというわけではないけれど、こういう読み方をしているといざ原作から映画化というような流れのときに脳内に構築された像が大抵は破壊されるのでどちらかに飲み込まれてしまう。両者が共存するときもたまにあるけれど、それは映画化に際して大きく改変されたりして別物だと認識できた時なのかもしれない。
そういう意味では、漫画グラフィックノベルなんかは容易く脳内に映像を構築できるし、映画化に際しても割と共存しやすいのかも。僕にとって読みやすい文学やその他コンテンツは、脳内に像を結像しやすいかどうかだと思う。「読みやすさ」には文章の美しさや、技量などが含まれているのだろう。
もっというと、恐らく映画を見ている時でも同時に脳内で像を構築していると思う。カットのつなぎなどは脳内で確実に補完しているだろうとおもうし、別軸のストーリーに映像が切り替わったときでも脳内では元軸のストーリーの像はそこに在り続けるだろう。
結局は、文字や創られた映像なんかは個体の脳の情報を別の個体の脳に送信するためのプロトコルに過ぎなくて、文字や映像をパースして自分の脳のフォーマットに変換しないといけないのかもしれない。
良質なSFを読んだのでSFっぽい話になっちゃった。
みんなはどうメディアを自分に流しこんでいるんだろう。気になる。

April 10th, 2013 1:06am